返す
つい、こねくり回すように能書きを垂れるのがおれの悪い癖だが、ご承知のように結局は堂々巡りなのである。それは自分でもよくわかっていて、最後には疲労とともに「凪」が訪れる。
持久力は五感にとって永遠の課題である。
たとえば、嗅覚を考えてみよう。自分にふりかけた香水の匂いなど、家を出る頃にはもう、忘れている。五感は浮気性なのだ。ふたたび、自分の香水の匂いを感知するのは、他の匂いに気をとられていた嗅覚がふと、われに返るときである。
おれは理性ではなく、感性で自分やその他のすべてを認識しているようなのだ。
饒舌な哲学者の書物に触れるとき、刺激を受け、存在や世界に対する何らかの「解答」をつかんだとような気がしても、それがおれに平安をもたらしてくれるとは限らない。瞬発力では哲学には到達できない。
ところが、逆にこんな「詩」をボソッとささやかれると、饒舌にも勝る「騒がしい」沈黙に支配される。
むずかしいことは判らない
この世にうまれてきた理由も
判らない
生きている理由も
判らない
なぜ、といわれても判らない
すみません
あの世へ逝ったら
あなたに骨を返します
「返す」 高木護
この詩は理性でも感性でもない。持久力だとか瞬発力だとかいう問題ではないのだ。
いうなれば「悟性」の範疇にある。
あぁ、おれは取り返しのつかない過ちをなんとたくさん犯していることだろう。いつか、ここにたどり着けるだろうか?
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自律的な自立に向けて
帰国後、3週間になるが、あまり部屋からは出ない(笑)で本ばかり読んでいる。せいぜい、近所の喫茶店に行き、商店街で買い物をしネカフェに行く程度。限られた人にしか会わない。ほとんどの友人知人はおれが帰国していることも知らない。
そんな暮らしならパタヤでもできそうなもんだが、不思議とパタヤでも旅でも得られない精神状態というのもあるようなのだ。
パタヤを離れるにあたって書いたブログにブッサバーさんがくださったコメントを最近、反芻する。
曰く「日本人からは逃れられない。だから一時日本に戻ってリセット(?)初心(?)に戻って、今パタヤに居る理由(?)パタヤに居たい理由(?)を整理されたらおのずと答えが出てくると思いますよ」。
これはもう、今のおれにはほとんど天啓に近い(笑)。「パタヤ」をいろいろ置き換えるのもいい。
行き当たりばったりに生きてきて、今、少しだけその後始末に苦しめられている。しかし、それでもかつてないほど、今、おれは自由で、ココロもカラダも緊張感を持って充実している。
そんな実感はパタヤでは得られなかった。
もちろん、充実していてもまだ、答えにも行動にも結び付かないが…。
たとえば、充実の一端には「自由」に対する思いの変化がある。
かつて、おれは「こだわりの人」であった。着るならこれ、食うならここ…衣食住から趣味、実用に関することまで、とにかく、なんやかんやとうんちくをひねり出し、こだわりこそ個性で、こだわりがアイデンティティの表徴であるかのごとく、おれはこだわることに熱中していた。
こだわりは「選択」であり「拒絶」であった。慎重な選択と拒絶が自分の立っている位置、立場の表明であり、それによっておれはいわば、「自由」を表現しようとしていたのだ。おれの前半生は選択と拒絶のせめぎあい、その終わりなきリフレインである。
まあ、ちょっと大げさに書いているけど(笑)、今となっては滑稽なくらい真剣だったわけです。自由に束縛されていたのだ。
もちろん、自由というのはとても複雑かつ奥深いものであるのは承知している。
だからこそ、いま、どんどん「こだわり」が抜け落ちていく。自由からも「自由」になりつつある。
いろいろ例を挙げだすときりがない。
もう、ひとつ。これからの問題は「自律」であり「自立」なのだ。はじめて本気で自立したいと思っている。自律的でありたいとも思う。そのために少しはおれも戦略的になりたい。
戦略を立て行動に出るまで、逃避願望を抑えて、ここにいる必要があるように思っている。
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Reflection
写真や動画は、かつてすべてフィルムに焼きつけられた。動画はつまるところ、1秒間に24コマ撮影した写真の連続再生にすぎない。その仕組みを詳細に説明できる科学的知識をおれは持ち合わせていないが、フィルムに定着するのはただただ、「反射」である。もっというなら現実にあるものに照射された「光の反射」である。
いま、何もかもデジタルになってしまって、カメラやビデオカメラがどのように仕組みで事物を定着させているのかおれにはさっぱりわからないが、今日のおれのお題は反射である。
視覚もしかり。光がなけりゃ、われわれには何も見えない。眼は反射を見るものなのだ。「闇が見える」という言い方も正しいだろうが、まあ、それは目をつぶっていても見える(だろう)。
五感における他の機能(聴覚、触覚、味覚、嗅覚)は反射とは違う。が、ココロという機能は実は反射によるところが大きいのではないだろうか?
と、ここからは科学的根拠を失って、至極、感覚的な展開となる(笑)。
「批評とは対象への言及による、批評する者そのものへの批評である」とは、まさしく意識や思考が対象に照射された自己に対して働いているものであるという真実を言い当てている。もちろん、その反射は光のそれではなく、自分そのものが反射してくるのだ。
つまり、おれたちは他者や事物をそのままに捉えるなどできないということだ。言い古されたコトバを使うなら「客観など存在しない」ということなのかも知れぬ。ただ、主観・客観などといった物々しさとは離れておれは、「反射」をこそ感知するから人間が好きだ。反射しか感知できないなら、なおのこと、美しい。イリュージョンでしかない反射を受け止め、それを読み解こうとする中に喜怒哀楽がある。反射を相手から発したものなのだと意図的に誤認して理解しようともがく。切ないがなかなかロマンチックでもある。
たとえば、性交というのもリフレクションだと思う。それもなかなか強烈で無条件のリフレクションだ。お互いがそのことを確信犯的に裡に秘めながら、究極のコミュニケーションであるという錯覚を確認しあう。いや、錯覚とはロマンのない物言いだ。それは幻想であり、刹那的な共振である。そうでなければ男は女を抱く意味がない。女もまたしかりだろう。性交はつまるところ、究極のマスターベーションなのだ(笑)。だから、癒しと自己復権をももたらすと同時に、そこに安住してしまうのは自家撞着に至るキケンな落とし穴である。
こう考えてみると、世にいうオナニーなど自慰の本来的な機能を果たしていないのは明らかだ。
もったいぶったことを書いているが、なんのことはない。
友人「もう、ずいぶんヤッてないなあ」
おれ「おまえ、若いくせになに言ってんだ…。だがなあ、40くらいになったら性欲はおさまってくるのか
と思ってたよ。でも、ぜんぜんそんなことはない(笑)」
友人「自分で抜くのか?」
おれ「いや、寒いだろ。冷たい手で触るとその気も失せる」
友人「おれ、フーゾクはだめなんだ。プロセスがなってない」
てな、酒の席での会話から、「性交こそマスターベーションだ」という話になったわけです。
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瞬間の王
愛という名の瞬間の王がおれの中で(も)死んだ。
瞬間の王である「愛」は、知らなければ良かった「愛」でもあった。しかし、結局のところ、いまもって「愛」がなんであるかなどおれは知らないのだ。ただ、持久力なくして実現しない「なにか」は、きっと、「愛」ではない。それは「愛」とは別のものであり、なんらかの信仰や規範が支えるモラルに等しきものだ。それほど、瞬間の王のチカラは絶大で、ほとんど「死」と同義である。
その瞬間に「死」をもって応えられなかったおれには、モラルによる自縛を受け入れるか、もう一度、「退屈」へと回帰するかの二者択一が迫られる。
こうして、おれは回帰を選択した。
もちろん、モラルの自縛がもたらすのも「退屈」であり、そもそも人生とは「退屈」の別名であるわけだが、瞬間の王からの「生還」がもたらす回帰は、人生つまり、「退屈」の処し方を大きく変化させる。
「瞬間は永遠に連なっている」というのは真実でもあり、しかし、ただの慰めでもあった。「生還」はおれにこの真実の確認を迫る。「死」を突きつけながら。「死」という担保付きの真実を確認させられることで、慰めは不要となる。
一方、モラルを受け入れる選択には慰めとともに美しい連帯が待っている。
回帰せざる得なかったおれはひとり、ボソッとつぶやく
「それで?…これからおれはどうしたらいいんだ」
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母に捧ぐ
愛でもないものを「愛だ」といって譲らないヒトが多い。その認識は個人個人の勝手だが、とかく、愛はインタラクティブなものであるので、対象としてその愛に巻き込まれるおそれが誰にでもある。おれはそんなとき、途方に暮れる。しかし、おれになにができるというのだろう?
結局、おれが四十に手が届こうかという今日、初めて理解したのは、母のそれこそ、愛だということだった。母の愛は「瞬間の王」とは違う。しかし、ここにも留保がある。庇護から独占、そして喪失の恐怖を経て諦めに到達したとき、母の愛は「瞬間の王」からもうひとつの愛のカタチへと昇華したのだった。それはモラルが支える継続性とは異なる、ひとつの愛を巡る旅路なのだ。
なぜ、世の母がこの旅への可能性を秘めているのか、おれは知っている。
母の愛でさえ「瞬間の王」であることから始まる。つまり誕生である。そこには「死」が内包されている。母子は死を越えてくるのだ。
一方、男女の愛にあって「性交」は不可分なものである。エクスタシーは出産と同様、「死」を内包している。エクスタシーなくして愛という「瞬間の王」は目覚めない。このときから、母は次なる「瞬間の王」である出産への向かう。
予定された「死」へと。
母とは「死」から「死」へと渡り歩く宿命にある者の別名でもある。
女であることと母であることの隔たりは大きい。
母の愛を巡る「死」の旅路には「別離」「喪失」が約束されている。それが母愛を崇高なものにする。
だからこそ、母たちは決して「死ぬときも一緒」などという妄言は吐かない。
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2008年
2008年の日本で「われわれ」なんて言わないでくれ
それは混沌かから屹立する硬く尖った時代の人称代名詞
2008年の路上に「われわれ」は立ち上がらない
2008年のアジアでも「われわれ」なんて言わない
混沌までが秩序の番人に成り下がっている時代
2008年の延命装置を切る「われわれ」は誰もいない
2008年の演説に「われわれ」という人称代名詞を禁止せよ
おまえの演説に耳傾けるのは
意思など持たぬ疎外されたエゴイストばかりなのだ
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出生率の低下が持つ積極的な意味
一ヶ月ほど前、桜が満開だった同じ場所が、今は緑一色になっている。



今日はちょっと風があったがとてもいい天気で、むせ返るような緑のにおいが充満していた。このあたりはおれのアパートから歩いてすぐ。普段、こんな界隈に住んでいるので、昨日ように渋谷に出たりすると妙に疲れる。
和田堀公園や善福寺川公園は連休最後の日をくつろぐヒトビトで賑わっていた。家族連れも多い。家族連れを眺めながら、数日前に見た記事を思い出した。
子供、27年連続減少 過去最低1725万人 総人口の13・5%−世界最低水準確かにアジアの国々から帰ってくると日本のこどもの少なさに驚かされる。
誰もが言及することだが、「こどもが少ない」ってのは社会の強度が低下しているってことだし、社会、そしてその成員が病んでいるってことだろう。
その分析や評価にはいろいろな切り口があるだろうけど、ただ、おれが思うのは「できないようにヤル」ということに関してだ。もしくは、もっと進んでいて(?)「ヤラない」のだろうか。または、「欲情しない」?
電車に乗れば、吊りモノ広告はエロに関する内容が多く、書店やコンビニではそんな雑誌が所狭しと並んでいる。そして、繁華街には性を処理してくれる便利な店もたくさんある。武勇伝を綴るブログ、海外のエロ情報を発信するサイトにはたくさんのアクセスがある。
時代は変わっても、新しいメディアを牽引するのは常に「エロ」だ。
だから、「欲情しない」わけじゃないだろう。やっぱ、みな「できないようにヤッ」てる、または、ヤらないで「処理」しているわけだ。
これは、ある意味、節度があるといえないだろうか(笑)。頭の中が真っ白になって、後先考えずオンナにしがみつき、挿しては腰を振るなんて卑しいことを、現代日本人はしないのだ。
おれはそのあり方を病んでいるとも思いつつ、他でもない日本におけるそのような身の処し方は賢明かつ、革新的であるとも思うのだが、どうだろう?
または、少なくとも全体性が持つ平衡感覚に添った選択であるといえる。
それは昭和の初年代に辻潤が「この時代に子供を作るヒトの気が知れない」とその著作に記し、戦後、深沢七郎が「滅亡教教祖」を名乗ったことと通じる。
もちろん、傑出したふたりはヒジョーに挑発的な物言いをしていたわけで、その言わんとするところの本質は、出生率の低下を危惧する人たちも気づいている「事実」をちょっと過激なコトバで指摘したに過ぎない。
そう、そして、こうしたヒトビトの選択は、究極の行動的平和主義だ。平和なんて叫び合ったって訪れない。節度のない人間が、節度のない人間と対峙したら、さらに騒がしくなるだけだ。
しかし、この「できないようにヤル」節度を持ったヒトビトの群れが導き出す結果のなんと、静謐に満ちていることか(笑)。
いやぁ、いくら「脳みそ筋肉」のヒトたちが、あれこれ画策して怪しげな旗を振ってもね。年寄りばかりじゃどうにもなりませんわなぁ(笑)。
連休最後の日を慈しむように過ごす健全なヒトビトに混じってこんな不健全なことを妄想しているわけで、どうもスミマセン。
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モノに囲まれて
すっかり更新をサボってしまいましたが、とりあえず一段落。
昨晩はすっかり酩酊し、今日は休みらしく過ごす。
せめて掃除でもと始めてみて思う。「暮らしってのはモノを溜め込むこと」だと。このアパートを借りたとき部屋はほとんどがらんどうだった。掃除もしやすかった。しかし、わずか数ヶ月でこれだ…。
世界中にはほとんど余計なモノなど持たずに生きているヤツらがたくさんいる。持ちたくても持てない者、あえて持たない者…、彼らの持たない理由はさまざまだが、そこには軽やかさと潔さがある。
一方、おれたちは未練たらたら、せま苦しい部屋にぎゅぎゅうモノを詰め込んで生きる。
それはいわゆるモノだけじゃない。下手すりゃいろんなものにがんじがらめだ。
希わくば、おれも旅人のように狩猟民のように一生を送りたいと思うが、なかなか、そうもいかない。
だから、一生に一度くらい、頃合いを見計らってすべてを捨てるのがいい。
そんなつもりではなかったが、せっぱ詰まっておれは「すべてを捨てる」に近いことをした。しかし、かえってなにもかもが拡散してしまったような気もする。
別に、PCのようにリセットしたり初期化したいわけではない。もっとあいまいで気分的なものだ。
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リーダーとは?
理想の総理大臣、「爆笑・太田」に人気集まる
http://career-cdn.oricon.co.jp/news/54710/fullというネットの記事を読んだ。
1位から10位までお笑いタレントだらけだ。彼らが庶民に人気があるのは当たり前のこと。
芸能、特に「笑い」とは常に反権力である。「笑い」は対象に「傾き」や「揺らぎ」を与えることで成立する。傾きを与える対象は、権力であったり、社会規範であったり、とかく絶対視されているモノ、常識的に立場や地位が確立されているモノになる。
はじめから傾いているモノや揺らいでるモノでは、いじっても新たな(創造的な)可笑しさは生まれない。
そういう作業を意識的に行うことで成立するお笑い芸人をリーダーに選びたいと考えるということは、既存の権力、勢力に対するヒトビトの不満や不信は相当なものだと考えるべきなのだろうか?
もちろん、それは事実だろう。
一方で危険な事実誤認があると思う。
寄席や舞台、テレビで政治や権力、世相を揶揄するお笑い芸人を見て、ヒトビトは溜飲を下げる。いつの時代、どんな社会でもそういう娯楽は必要だ。
しかし、だからといって、お笑い芸人に世の中を変えて欲しいとまでは思わなかったはずだし、お笑い芸人も「おれが世の中を変えてやる」とは思わなかっただろう。
いま、誰もがそれを想像している。そして、実際に政治に首を突っ込む芸人まで出てくる。
たとえば、庶民が才気走ったお笑い芸人に何かを期待するのは、まだいい。ドラマのヒーローを見て、「ああ、彼がこの世界に実在したら…」と願う乙女心のようなもの。無邪気で罪がない。
しかし、テレビドラマのヒーローを演じているヤツは、まさか現実世界にそのまま「おれがヒーローだ!」といって登場しようとは思わないだろう。そんなヤツが現れたら確実に病院行きだ。
でも、お笑い芸人は時々それをする。すごく大まじめな顔でそれをする。
百歩譲って、そういう芸人がいてもいい。でも、そんなヤツが現れたら、みんなで笑おうよ。少なくともお笑い芸人なら、それをネタにして、そんなヤツを笑い者にしようよ。
それでも、まだ本気なら…。そのときは「ドン・キホーテ」のように敬意を示してやる。
でも、誰もしない…。誰も笑わないし、連中を笑いものにもしない…。
みんな、本気で期待したりしている。とっても薄気味悪い。
一時期、残酷なテレビゲームや映画、戦争報道の映像なんかが現実と虚構の垣根を曖昧にするなんて論評が盛ん振り回されていた。お笑いを巡る作り手と観客の意識の方こそ現実と虚構の境界が曖昧になっているだろう。
別に政治家や政党でなければ…なんて言ってない。
リーダーとはヴィジョンを示す者だ。何も特技なんてなくたっていい。才気走ってなくたっていい。ヴィジョンを持つ楽天性とヴィジョンを語る説得力、その実現のための最初の一歩を踏み出す蛮勇さえあればいい。
もちろん、残念ながら現代日本でヴィジョンを示すということは、おそらくヒトビトに我慢や出血を求めることだ。だからこそ、今まで以上にこの3つの資質が欠かせない。
その場しのぎの「庶民の味方」やポーズとしての「国と国民のため」ならそこら中に転がっている。しかし、政治家も知識人も評論家もお笑い芸人も、誰もヴィジョンなど示そうとはしない。
この国は長い間、リーダー不在だった。
いまや、ヒトビトにはヴィジョンを見るチカラも残っていない。
やっぱり、ここは「終わった国」だった。
こういうニュースを読みながら、先日観た「大日本人」を思い出す。総理大臣になって欲しい有名人10人の中に松本人志の名前はない。
「大日本人」が描いていること、松本人志の名前がないこと…このふたつ事実は、彼が「芸人」として一流であることの証であるのだと気がついた。
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働く
金が欲しくて働く
金のことだけを考えて働く
なぜ、金が欲しいのかは忘れる
ただ、オンナにいい顔をしたいんだ
効率だけを考えて働く
省力だけを考えて働く
全体から見たら不合理なのに気づかない
ただ、夢見る時間が欲しいだけなのに
人目を気にして働く
出し抜くために働く
競争原理とやらが必要らしい
それもまた、自分との戦いってわけ
明日休むために働く
いつか休むために働く
いつだって今日はサクリファイスにされる
人生は喪の連続である
意味を考えて働く
やりがいを求めて働く
おれの代わりならいくらでもいる
趣味と道楽が再発明される
好きなことをしています
自分を表現しています
給料は安いけどいまの仕事に満足です
そうやって酒を飲む
生きるために働く
働くことは生きることだ
いつか解放されることを希って働く
いつか解放されることを希って生きる
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性的越境に対する関心
オンナは値踏みが大好きだ。モノでもヒトでも目に止まった瞬間、査定が始まっている。
「あのヒトって…ゲイよね?」
たとえば、こんな台詞に聴き憶えはないですか?
おれが関わってきたオンナに関していえば、全員がこの類(ゲイ・バナシ)の台詞をけっこうな頻度で発していた。
しかし、べつにゲイだから、または、ゲイでないからといって彼女たちが具体的になにかするわけではない。まして裏を取るわけでももちろんない。ただ納得して悦に入る。「あたし、鋭いのよ」ってわけだ。おのれの高い鑑識眼に満足する。もちろん、完全なる自己満足である。
タイトな服を着てりゃ「ゲイ」。ちょっとした仕草で「ゲイ」。慣れてくると根拠は実に単純だったりする。「だって、わかるのよ!」で済まされてしまうことすらある。
彼女たちにかかると世の中、「ゲイだらけ」ということになりかねない(笑)。
「えっ、そうかな?」「さあ…」っていうおれの返答は、無関心であることを示しているのだが、彼女たちには「よくわかるなぁ」と聞こえるらしい。「どーでもいいじゃん」とは言わない。他人の趣向を頭ごなしに否定してはいけないと躾けられている(笑)。
「あんたって見る目ないのね…。それとも、その気アリ?」
どうやら、値踏みというよりも、女は「性の越境」に関して敏感に反応するらしい。特に、ゲイやレディボーイに関する言動には、時に敵意に近いものすら感じることがある。
それも、まあ、わかるようなわからないような…だ。
「わあ、キレイ!」「かわい〜い」なんてのは彼(彼女)らが見せ物的な位置にあるときだけ。同じ路上にたった途端、「良くできました!」扱いは影を潜める。
これがパタヤみたいな場所では、ゲイ、レディーボーイ、トムボーイと目白押しだから、Jなんかはそれこそ、大忙しである。もちろん、他の女たちにも目を光らせているが、話題になるのはトランス・ジェンダーの方が多い。
「ね、わかる?…彼(彼女)、レディーボーイよ」
「あのカフェの彼(彼女)、トムボーイだって知ってた?」
べつにおれたち男からしたら、誰がどんな「越境者」だろうとどうでもいいことだ。
(そうですよね?)
彼女たちの関心の高さは、女の「機能」と関係があるのだろうか?
ところで、今日、人に会うために久しぶりに新宿まで出た。飯を食い、相手がノン・スモーカーなので仕方なくスタバに入る。スタッフがやたら丁寧でにこやかで、かんで含めるようにメニューの説明をしてくれる。カップのサイズをサンプルで示して確認し、ショーウィンドウを指し示しながらオーダーを復唱する。その笑顔と声の抑揚はちょっと不気味で、気持ち悪いくらいだ。
席に着いてから思わず言ってしまった。
「あいつ、ゲイかな?」
やはり、連れは「さあ…」とどうでも良さそうだ。
激しく後悔しながら、安堵もする。「そうだよなぁ、どーでもいいよな。そんなこと」
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