日本や西洋社会、ことアメリカ合州国などでは、「Feminism」なんてものが盛んに叫ばれていたりする。辞書を見ると「女性解放論(主義)」とか、「男女同権論(主義)」などという意味であるらしい。「Feminine」という語は、「女性らしさ」とか「女性性」を表す形容詞であるが、フェミニズムってのはフェミニンを称揚し、それを仰ぐ「ism」ではなく、かえって「Femininity」を損ないかねない危険を孕んだ思想であることがわかる(ホントか?)。
実際、誤解を恐れずに言えば、「Feminism」を唱えれば唱えるほど、肝心の「Femininity」が女性たちから失われていくような気がするのはおれだけだろうか。
「肝心の」などという言い方は、それこそオトコの勝手な思いが現われているのかもしれない。しかし、どうあがいても、生理的に男はオトコだし、女はオンナであることから何人も逃れ得ないのだ。もちろん、最近じゃ性同一性障害みたいな病まで登場し、「生理的に…」なんて言い方が当てはまらないこともあるのだろうが、いまは、そこまで話を広げないでおく。
オンナたちが「Femininity」を失いつつあるとしたら、それはオトコたちがその「らしさ」や、ジェンダーにおける役割と責任の分担を担いきれていないからだし、もっと言えば、おれたちオトコが、「ダメ」で「不甲斐ない」からだろう。
一方、タイを舞台に見てみると、フェミニズムなんてものはほとんど、関心にもイシューにもならず、オンナたちはその「Femininity」全開で巷を闊歩している。では、タイのオトコたちは「ダメ」でも「不甲斐な」くもないのかというと、ことによったらその頼りなさもいい加減さもまったく日本以上であることはご承知の通りだ。
しかし、日本のオトコたちのそれとタイのオトコたちのそれは、位相も質も異なるようである。
おれたちは「オトコ」としてダメで不甲斐なく、タイは「男」としてダメで不甲斐ない。
漢字とカタカナの当ては単なるイメージである(笑)。
おれたちのダメさや不甲斐なさは「Feminism」を呼び起こし、タイの男たちのダメさや不甲斐なさは「Femininity」を呼び覚ます。
女性たちへの作用の仕方が真逆なのだ。
いまもオンナたちが「Femininity」を保持している社会は世界中に散在するが、ちょっと考えてみるといくつか共通点がある。
たとえば、「男の世間と女の世間がきっちり分け隔てられている」。もちろん、マージナルな位置は存在するにせよ、それぞれの閉鎖的な場は相互侵食が限りなく少ない。また、「母系的、または擬似的母系制を維持している」なんてのもそうだ。タイは本質的には父系的なのだろうが、子育てを軸に機能的に母系制を擬態しているようなところがある。
男女それぞれの固有なサークルに一方の侵食を防ぐとか機能的に母系制を擬態するというのは、オトコたちの無自覚で本能的な行いのなせる業ではないだろうか。
ともかく、こうして、世界中の「Feminism」に気圧されたオトコたちはタイをはじめとするオンナたちの「Femininity」にコロリといってしまう。そんなオトコたちが彼女たちにせっせと貢ぐ外資は、一見、彼女自身やその家族、ヒモをこそ、利しているようだが、実は、世界に残された貴重な「Femininity」の砦が、もっともらしい理屈や主義主張の前に陥落するのをからくも防いでいるのである。
自らの社会に「Feminism」を呼び起こすことによって「Femininity」を駆逐してしまったおれたちは、贖罪へと向かう。外側から異国の「Femininity」を支えているのである。外からも内からも支えられて、タイの「Femininity」はますます色香を増してその存在を誇示する。
そんな「Femininity」をいまも保持するタイは、つまり、ジェンダーという思想を社会・文化的にも生物的にも具現しているわけであり、だからこそ、さまざまなトランス・ジェンダーでさえも社会に包摂する柔軟性を有しているわけだ。
なんだか、自分で書いていてわけがわからなくなってきたので、この辺でやめます。
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テーマ:タイ・パタヤ - ジャンル:海外情報
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