おれはJを通してタイを見ている。
言葉もできず、どちらかというと自堕落な流離の涯てにここに流れ着いたおれには、それがもっとも安易で現実的な手段だったからだ。
人間関係、衣食住から遊び、思惟に至るまで、おれは基本的にJという人間の経験界で暮らしてきた。
もちろん、おれがここにいることで多少はJもおれを通して何かを見たり、彼女の経験界そのものが変化したということはあるだろう。しかし、そもそもオンナは保守的だし、閉鎖的階級社会に生きる人間は総じてよりいっそう、保守的なのだ。
「新しい世界に羽ばたく」なんて映画のラストシーンのような覚醒や転換はフツーあり得ない。
ただ、振り返ってみると、この「まる投げ」は人間関係、こと女性関係におけるおれの常套手段であった。そんなおれは、一面、「ヒモ」に向いているのかもしれぬ(笑)。いや、もちろん、向いていないことはよくわかっていて、ただ単に怠惰なだけなのだ(怠惰な人間にヒモは務まらぬ)。しかし、過去の同棲でも結婚でも生活におけるすべてをまる投げしても、おれには固有の別な世界があった。その固有な世界を守っていられる限り、おれのココロは健康であったのだ。
そして、いつも、その固有な世界の維持が困難な情況に直面し、おれは関係を放棄せざる得なくなってきた。
しかし、Jと暮らして数ヶ月。これまで、いわば、すべてをまる投げにしてきた。こんなことは初めてだった。
それだけ、未知のこの世界が興味深かったし、おれは過去の自分から逃避を試みていた。もちろん、どこかそれが時限的なものだという予感は抱きつつ…。
特にJのような女性にとって、世界とは単一なものだ。仮におれに強固な揺るぎない一貫した固有の世界があるのなら、彼女をそこに引きずり込むこともひとつの選択ではあるだろう。彼女がそれに耐え切れるかどうかは別にして。
たとえば、「
意外な出会い」のフランス人や、「
Another Pattaya Story」のKは、そうした。そして、やっぱりタイ女は耐え切れなかった。
西洋人にはこの手合いが多い。「Believe」の宗教のヤツらにとっては当たり前のことなのだろうか。女もその血引きなら折り合いもいいだろうがね。
逃げ出したタイ女である彼女たちの口から出た奇しくも同じ台詞…「あたしはMaidじゃないのよ」。そう、Jも含め彼女たちの住まうところ…そこは実体のないプライドが微温的なやるせなさとぬくもりに支えられる、「人間」にとって窮極の安住の地なのだ。
Jという窓が与えてくれた見聞は、おれを豊かにしてくれた。そう、「こういう世界もあるのだ」と。「こういう生き方もあるのだ」と。おれの固有の世界はそもそも、あいまいで不確かなとらえどころのないものだ。揺るぎなさも一貫性もない寄せ集めの世界。さまざまな窓からのぞいた見聞がおれの世界をさらに豊かに(あいまいで不確かなとらえどころのないもの)にしてくれる。
ひとたび、その「豊かさ」に魅せられてしまったら、どんなに素晴らしい光景が目の前に広がっていようとも、ひとつの窓の前にとどまり続けることなど、どんなに強固な意思を持ってしてもできないだろう。
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テーマ:タイ・パタヤ - ジャンル:海外情報
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