つい、こねくり回すように能書きを垂れるのがおれの悪い癖だが、ご承知のように結局は堂々巡りなのである。それは自分でもよくわかっていて、最後には疲労とともに「凪」が訪れる。
持久力は五感にとって永遠の課題である。
たとえば、嗅覚を考えてみよう。自分にふりかけた香水の匂いなど、家を出る頃にはもう、忘れている。五感は浮気性なのだ。ふたたび、自分の香水の匂いを感知するのは、他の匂いに気をとられていた嗅覚がふと、われに返るときである。
おれは理性ではなく、感性で自分やその他のすべてを認識しているようなのだ。
饒舌な哲学者の書物に触れるとき、刺激を受け、存在や世界に対する何らかの「解答」をつかんだとような気がしても、それがおれに平安をもたらしてくれるとは限らない。瞬発力では哲学には到達できない。
ところが、逆にこんな「詩」をボソッとささやかれると、饒舌にも勝る「騒がしい」沈黙に支配される。
むずかしいことは判らない
この世にうまれてきた理由も
判らない
生きている理由も
判らない
なぜ、といわれても判らない
すみません
あの世へ逝ったら
あなたに骨を返します
「返す」 高木護
この詩は理性でも感性でもない。持久力だとか瞬発力だとかいう問題ではないのだ。
いうなれば「悟性」の範疇にある。
あぁ、おれは取り返しのつかない過ちをなんとたくさん犯していることだろう。いつか、ここにたどり着けるだろうか?
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言葉
人の考えは全てを理解することが出来ないかもしれません。
A君がA君のある考え(概念)をA君の言葉を使って表現する。そうするとそれを受け取ったB君はB君の言葉で理解しようとします。A君が言葉を使ってある概念を表現した時点でA君の概念からはかけ離れたものになっている可能性があります。それは言葉という数が限られたモノの中から一番適切だと思われるモノを選んで表現しますが、それが本当に概念を寸分くるいなく表したものかどうかは分からず、また言葉に対するイメージが人それぞれ違うから起こってしまう現象だと思います。
またそういった理論的に定義されたものや、説明されたものというのは何時までも自分の中から離れることは無く、囚われてしまうと思います。概念の意味することよりも言葉のほうが勝ってしまうからです。
しかしその何時までも囚われて離れないものは想像
になって不安や安心をもたらすものでもあると思います。
人間は言葉を使い出してから言葉囚われてしまっているのかもしれません。
【2008/03/14 21:21】
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【2008/03/14 21:26】
| # [
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多分、「我思う、故に我在り」に込められた意味だと
思います。
【2008/03/14 23:22】
URL | jun #- [
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junさん
この辺の齟齬の問題は西洋の近代哲学で盛んに議論されてきましたねぇ。
一方で、禅の公案などは、そんな言葉の限界を東洋なりのやり方で乗り越えようとしている好例だと思います。
まあ、自分にはまだ、公案の最も初歩的なものでもさっぱりわけがわかりませんが(笑)。
【2008/03/17 19:08】
URL | Rokumonya #- [
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