写真や動画は、かつてすべてフィルムに焼きつけられた。動画はつまるところ、1秒間に24コマ撮影した写真の連続再生にすぎない。その仕組みを詳細に説明できる科学的知識をおれは持ち合わせていないが、フィルムに定着するのはただただ、「反射」である。もっというなら現実にあるものに照射された「光の反射」である。
いま、何もかもデジタルになってしまって、カメラやビデオカメラがどのように仕組みで事物を定着させているのかおれにはさっぱりわからないが、今日のおれのお題は反射である。
視覚もしかり。光がなけりゃ、われわれには何も見えない。眼は反射を見るものなのだ。「闇が見える」という言い方も正しいだろうが、まあ、それは目をつぶっていても見える(だろう)。
五感における他の機能(聴覚、触覚、味覚、嗅覚)は反射とは違う。が、ココロという機能は実は反射によるところが大きいのではないだろうか?
と、ここからは科学的根拠を失って、至極、感覚的な展開となる(笑)。
「批評とは対象への言及による、批評する者そのものへの批評である」とは、まさしく意識や思考が対象に照射された自己に対して働いているものであるという真実を言い当てている。もちろん、その反射は光のそれではなく、自分そのものが反射してくるのだ。
つまり、おれたちは他者や事物をそのままに捉えるなどできないということだ。言い古されたコトバを使うなら「客観など存在しない」ということなのかも知れぬ。ただ、主観・客観などといった物々しさとは離れておれは、「反射」をこそ感知するから人間が好きだ。反射しか感知できないなら、なおのこと、美しい。イリュージョンでしかない反射を受け止め、それを読み解こうとする中に喜怒哀楽がある。反射を相手から発したものなのだと意図的に誤認して理解しようともがく。切ないがなかなかロマンチックでもある。
たとえば、性交というのもリフレクションだと思う。それもなかなか強烈で無条件のリフレクションだ。お互いがそのことを確信犯的に裡に秘めながら、究極のコミュニケーションであるという錯覚を確認しあう。いや、錯覚とはロマンのない物言いだ。それは幻想であり、刹那的な共振である。そうでなければ男は女を抱く意味がない。女もまたしかりだろう。性交はつまるところ、究極のマスターベーションなのだ(笑)。だから、癒しと自己復権をももたらすと同時に、そこに安住してしまうのは自家撞着に至るキケンな落とし穴である。
こう考えてみると、世にいうオナニーなど自慰の本来的な機能を果たしていないのは明らかだ。
もったいぶったことを書いているが、なんのことはない。
友人「もう、ずいぶんヤッてないなあ」
おれ「おまえ、若いくせになに言ってんだ…。だがなあ、40くらいになったら性欲はおさまってくるのか
と思ってたよ。でも、ぜんぜんそんなことはない(笑)」
友人「自分で抜くのか?」
おれ「いや、寒いだろ。冷たい手で触るとその気も失せる」
友人「おれ、フーゾクはだめなんだ。プロセスがなってない」
てな、酒の席での会話から、「性交こそマスターベーションだ」という話になったわけです。
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テーマ:タイ・パタヤ - ジャンル:海外情報
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【2008/04/01 21:03】
| # [
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オ○ニーがオナペットを使いエクスタシーを得ることとするならばその方法は自分の意識下(支配)にあるということでしょうね。それでいえばゴーカンはさらに上をいくものでしょう。これは男性のほうがたやすいかもしれませんが女性ではSMの女王様がそうかもしれません。
【2008/04/01 21:05】
URL | jun #- [
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junさん
まあ、よくわかりませんが、「マスターベーションくらいは、満足いくようにやりたいな」と思ったのでした。
【2008/04/02 13:36】
URL | Rokumonya #- [
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