街で降る霧雨はきらいだ。
霧とも雨ともつかず、降っているのか舞っているのかわからないような霧雨に包まれて樹林帯なんかを歩くなら、木の葉のぬれたカンジやぬらぬらと光る苔むした岩は豊穣さの象徴のようで心地よい。しかし、都会ではそれがただ、うっとおしいだけのものに感じられるのはなぜだろう。なにもかもおっくうになる。
南国のスコールは街でも田園でも、浜辺でも森でもどこか楽しげなのは、あの勢いと潔さがそう感じさせるのだろうか。一服の涼というカンジもあるのがいい。せめて、雨はあのように降って欲しい。
雨合羽もないので、今日はやむなく電車に乗った。しかし、だめだった。おれは通勤電車に乗ってはいけないヒトのようだ。あれはおれをあまりに憂鬱にさせる。
それにしても、おれが働き出した途端、こんな天気なのはなんの因果だ(笑)。
さて、本題。
Jは友人がどんどん疎遠になっていくと嘆く。確かにおれが彼女の周りをうろちょろし始めてから、日ごと、彼女の友人がうちを訪ねてくる頻度が鈍り、以前ほど彼女の電話は鳴らなくなってきた。
いったい、どういうことなのだろう?
パタヤで形成されるタイ人(特に女性)の人間関係は、当然、仕事のつながりによって生まれる。ほぼ、みんなよそ者でいろいろな意味で地域差が大きいから、共通項は仕事しかない。お水から足を洗うということは、お水たちが形成するサークルからも足を洗うということを意味するのかも知れない。
Jが説明するところによれば、オトコができるということは、オトコに「have」されるということだと。オトコがいて自分で稼いでいない友人には「借金依頼」はできない。だからみんな疎遠になっていくとのこと。なんてわかりやすいんだ(笑)。
友人ってそれだけか?
ただ、理由はともかく、実際、最近でもJと曲がりなりにも付き合いがあるのは、韓国に嫁いだ妹のところにボーイフレンドと一緒に出稼ぎに行ったYと、ドイツで出稼ぎ中のタイ人のダンナがいるNくらいなのだ。ふたりとも「足を洗った組」ということになる。
ここからは、おれの勝手な夢想。
公共のセーフティ・ネットなど通常、存在しない第3世界では、血縁こそ最大のセーフティ・ネットである。しかし、お水をしにパタヤまでやってくるようなオンナたちの血縁は当てにならないからこそ、彼女たちはパタヤに来る。
きっと、お水コミュニティというのは、ぎりぎりの擬似セーフティ・ネットでもあるのだ。「ぎりぎりの」という意味は、「なにがあってもお互いを見捨てない」ような強固な関係ではないから。そして、足を洗った者は否応なく切り捨てられる。きっと、そんな者とまで擬似的関係を維持し続けるほど、お水たちに余裕はない。
ただ、そんな対応は非情だけど、限りなく優しくてストイックでもある。抜けた者への「もう戻るな」という強いメッセージでもあるような気がする。
だから、お水に戻ればまた、揶揄されたり、「やっぱり」とか「それ見たことか」という扱いを受けても、歓迎される。
なあんて、キレイごとのような解釈ですが、はたしてどうなんでしょうか?
という、おれの勝手な夢想から連想するに、Jはいろいろな意味で過渡期にあるのだ。
「マイ・ミー・フレンド」と嘆き、「マイ・サヌック」とぼやく彼女にとって「コン・タマダー」(Jの言い方)の壁は厚いだろう。その難しさは説明が難しい。が、いうなれば、彼女たちは得てして「こどものよう」なのだ。こどものようにずる賢く、こどものように世間知らずである。
そう考えると、おれもいま、「はい、さよなら」ってわけにはいかないような、妙な義務感というか責任感を感じさせられてしまって、少々、気が重い。「なんか、面倒なもの背負いこんでしまったなぁ…」というか(笑)。
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テーマ:タイ・パタヤ - ジャンル:海外情報
アジアの優しい無関心、というやつでしょうか。
【2008/05/14 03:21】
URL | ぱたえもん #- [
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人間はほとんどが本質的に自閉的なんだと思います。
【2008/05/17 20:30】
URL | Rokumonya #- [
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