「I ja pai buy wet table」とJがいう。
タイ語と英語が入り混じっているが、おれたちの会話では当たり前。
「Ja」は未来形で「Will」のようなモノ。「Pai」は「Go」だ。「Wet Table」が最初、なんだかわからなかった。「Vegetable」である(笑)。
そもそもおれの英語もめちゃくちゃである。旅とインド暮らしで最低限不可欠なコミュニケーション能力を身につけたに過ぎない。それがJとの暮らしでますますわけのわからないものになっていく。
「Time you go drive motorcycle, I care for you until come back na」
お解りになるでしょうか?
「あんたがバイクで出かけてる時は、帰ってくるまで心配してるのよ」てなカンジである(笑)。
「Time」は「When」を代用している。
また、Jに時制は通用しない。タイ語と同じく、昨日とか明日とか朝とか夜とかをつけることによって時制を判断する。特に現在形と過去形でカタチが変わる動詞の場合、過去形を使うとまったく通じない。「Go」はいいが「Went」はダメなのだ。
完了形などは問題外である。
そして、所有格もほとんど使わない方がいい。
「Your Money」ではなく「Money You」の方が通じる。
さらに、どんどんタイ語の単語も混じってくるのだから、ほとんどおれたちだけが理解できる新しい言語を生み出しているようなものである。
それもまた、楽しいことではある。
きっとピジンなんてのはこうして生み出されていったのだろうなんて想像してほくそえむ。
そう、コトバなんて永久不変のものではない。常に移ろい変化していってこそ「生きた言語」だ。コンセプトがいかに素晴らしくとも、エスペラントが決して世界語として普及も定着もしない理由はここにある。コトバは記号ではない。
言語はすべからくピジン化していくと考えた方が自然である。
日本語だって当然、変わってきたし、どんどん変わっていく。あまたの外国人が暮らす地区なんかでは、ピジン・ジャパニーズが生まれたっておかしくない。それも楽しいことだ。
ところで、おれの母語は日本語である。母語は母語であるだけに、かなり複雑な思考過程まで表現しうるチカラを持っている。逆に言えば、母語で考えることによって、おれは思考をより掘り下げていくことができる。中途半端なものも含めて習得したいくつかの他言語では、母語を駆使して思考している過程と結果を再現することなどとても出来ない。微妙なニュアンスや機微はまず伝えられない。
よって、表現はシンプルになる。難しいことは伝えようとしないわけだ。だから、理解されやすい。日本語だったらいろいろひねり出そうとする気の利いた文句など使えるわけもない。
すると、母語以外の言語で生活していると、おれはどんどんシンプルになれるのではないかと思った。
だんだん気持ちもそれを受け入れるようになる。「単純なヤツだ」と思われることすら気にならなくなる。Jとの関係もそうして成り立っている。
日本での躓き(?)は、複雑さにあるのかも知れないということにまで思いが及ぶ(笑)。
複雑であるがゆえに、自ら深みにはまり、さらに複雑さに足を取られて、思考も表現も完遂することができない。中途半端なそれは当然、伝達の確実性を失っていく。
さらに、その徒労感が自らを内向きにしていく。悪循環だ。
母語以外を使わざる得ない環境で生きていけば、おれはシンプルに単純明快に生きていけるのではないか…。
なあんて、そんなに簡単に片付くわけもないことはこれまでに自ら実証済みなのであるが、時々、つい、そんなことを夢見たりするわけでした。
こんなこと、グダグダ書いてる時点で自らその可能性をつぶしているようなものかな(笑)。
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